令和6年度 やまがた育英会「予餞会」開催。
34名の卒寮生の前途をみんなで祝いました。
令和7年1月26日(日)、駒込寮で卒寮生を送る予餞会が盛大に開催されました。当日は34名の前途を祝うため在寮生はじめOBら90人が集まりました。
予餞会の第1部は恒例となった記念講演会が開催されました。
記念講演会
「田端文士芸術家のように、大きく羽ばたけ」
講師:田端文士村記念館 館長補佐・研究員 石川 士朗さん
令和6年度の卒寮生の皆さん、本日はおめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。
今日は皆さんが4年間過ごしたこの地域の話をして皆様にエールを送りたいと思います。私は北区出身で大学を卒業した後、世田谷美術館や横浜トリエンナーレなどで研鑽を積み、同時に通信教育で学芸員の資格を取り、北区文化振興財団に就職しました。この財団は北区らしい市民文化を創り出す目的で、多彩な文化振興事業をしています。
最初、田端文士村記念館に5年、その後〈北とぴあ〉という劇場に配属になり9年いました。仕事をする上で心がけていることは、人とモノを結ぶ「架け橋」のような存在になりたいと思っています。ですから北とぴあでは人と音楽をつなぐ仕事をしました。アーティストや音楽についても一から学び、2016年にラッパーのKOHHさん(現在は千葉雄喜さんとして活動し楽曲「チーム友達」が大ヒット中)の北区凱旋公演や、2015年に浜野謙太さん率いる在日ファンクのバンド史上初のホール公演などに携わりました。
同年に私はこの寮の前寮監・和田さんと知り合いました。和田さんは山形県鶴岡の伝統芸能・黒川能を北とぴあで実施するため、実行委員として活動しチケット販売に奔走されていました。故郷の芸能を見てもらうためなら「いくらでも頭を下げてチケットを買ってもらう」と言った和田さんの言葉に感激し、私も故郷である田端に誇りを持とうと思いました。
私の勤める田端文士村記念館は田端駅前にある小さな記念館で、芥川龍之介など田端に暮らした文士、芸術家を顕彰しています。
芥川を中心に田端界隈に多くの文士が集まった
皆さん、芥川龍之介はご存知でしょう。「蜘蛛の糸」「羅生門」などを学校で習ったりして馴染みがあると思います。ほかにも「鼻」、「藪の中」など数々の名作を世に残しています。
芥川の作品は現在でも洋の東西を問わず読まれていて、40カ国以上で翻訳されていますが、翻訳が飛躍的に多くなったのは1950年、黒澤明監督の映画「羅生門」がベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞したことが契機とされています。「原作の芥川龍之介って誰?」となったのだと思います。彼の作品は短編が多く、それだけに海外で翻訳しやすかったとも言われています。また、近年では2006年に英国のペンギン社がジェイ・ルービン英訳の芥川短編集 ”Rashomon and Seventeen Other Stories”を刊行した。村上春樹さんが序文を寄せたことでも話題となり日本にも逆輸入されています。その中で村上さんは、「僕が芥川の文学で美点であると見なすのは、まず何よりもその文章のうまさ、質の良さである。(略)何よりも流れがいい。文章が淀むことなく、するすると生き物のように流れていく。言葉の選び方が直感的に自然で、しかも美しい。芥川は若くして外国語にも漢文にも精通した教養人であったから、現代の作家には使い切れないような優雅典麗(ゆうがてんれい)な言葉をどこからともなく持ってきて、それを自由自在に配置し、いかようにも動かすことができる。」と評価しています。
また、芥川といえば、昭和10年に創設された「芥川龍之介賞」はご存知だと思います。1月にも芥川賞、直木賞の受賞作が発表されました。この賞は昭和10年に芥川の親友で作家・実業家でもある文芸春秋社の創設者の菊池寛が制定したもので、芥川賞は純文学の若手作家のための日本で一番有名な文学賞です。マスコミでも受賞の様子が大きく報じられ、芥川の名を身近に感じることができる一因です。さらに、最近は芥川龍之介というキャラクターが登場する漫画やアニメ、ゲームなどの影響から、若い女性を中心に「文豪」や「近代文学」が見直されるようになりました。近年、記念館にも若い女性が来てくれるようになりました。また、「青空文庫」で文学の登録作品が増えたのも、その影響だと思います。皆さんも読んでみてはいかがでしょうか。
さて、芥川は京橋区入船町(現在の中央区明石町)で生まれました。しかし生後まもなく母の病により、伯父の両国の家に預けられ(後に正式に養子となる)青年期まで過ごします。明治42年に両国の家が水害に遭い、芥川家は新天地を探す必要がありました。そこで選んだのが田端で、養父は193坪の土地に家を建てました。芥川は当時、東京大学に通う学生でした。家から田端駅までは急な坂道があり、友人に「学校へは少し近くなつた(略)たゞ厄介なのは田端の停車場へゆくのに可成急な坂がある」と弱音を吐くこともありましたが、山手線で上野に出て東大まで歩いて行っていたようです。
田端の自宅では2階の8畳間を書斎とし、ここから名作が生まれました。大正4年に「羅生門」、翌5年には「鼻」を発表しました。「鼻」は夏目漱石から「あなたのものは大変面白いと思ひます(略)あゝいふものを是から二三十並べて御覧なさい文壇で類のない作家になれます」と絶賛されました。芥川にとっては大文豪・漱石からの励ましの手紙に、作家への志が固まりました。同時に文学界では「あの漱石に学生が認められた」と注目を集めました。「鼻」もそうですが、実は芥川は古典文学を下敷きにした作品が多いのも特徴の一つです。「古典」ということは、芥川の時代までに淘汰され、継承されて来た優れた作品であるといえます。芥川作品の主題に普遍性があるというか、今読んでも古臭さを感じない理由の一つだと思います。
大正5年、芥川は東大を卒業し、海軍機関学校の英語の先生になり、創作活動との二重生活を始めました。私生活では大正7年に塚本 文と結婚します。田端の白梅園で式を挙げ、天然自笑軒という料亭で披露宴を行いました。芥川が文さんとの婚約中に送ったラブレターを紹介します。「ワタシハアナタヲ愛シテ居リマス コノ上愛セナイ程愛シテ居リマス ダカラ幸福デス 小鳥ノヤウニ幸福デス」カタカナと漢字で原稿用紙に書かれたたった3行のラブレターからは芥川の素直な気持ちが伝わってきます。他にもラブレターは全集には十数通ありますが、現物が残っているのはこれだけと伝わっています。「自分たちが亡くなったら焼いてほしい」と言っていたようですが、遺族の方はこのラブレターだけは棺に入れられなかったのか残っています。その他、全集に残っているものでは「文ちやんがお菓子なら頭から食べてしまひたい位可愛いい気がします」や「文ちゃんの外に僕の一緒にいたいと思う人はありません」など情愛がこもった手紙があります。都会出身で東大出のエリート、作品の完成度から、芥川に冷淡でとっつきにくい印象を持っている方が多いのですが、実は如才ない性格で、冗談がうまく、時にはこのラブレターのように情熱的な一面もあったことが分かります。
芥川は大正8年に英語教師をやめ、筆一本でやってゆくことにしました。自分の書斎を我鬼窟(がきくつ=エゴイストの部屋)と命名し、創作に注力を注ぎます。名作が続々生まれ、そして名声が高まると日曜の面会日には文学仲間や友人、新聞・雑誌記者、執筆活動の指導を求める後輩などで溢れかえりました。また、田端文士村のサロンとして「道閑会」という例会にも参加し始めます。「道閑会」は、年齢、職業を超えた作家、画家、工芸家、美術評論家、実業家、さらには芥川の最期を看取った医者などが集まりました。それだけに文学だけではなく美術談義をしたり、趣味を披露したり、古美術品を持ち寄って交換販売したり、ゲストを呼んでの座談会などが行われていたと思います。
芥川に田端に住む同年代の友人ができました。金沢から出てきた詩人・室生犀星です。大正8年、ある詩人の出版記念会で二人は出会いました。室生は芥川を紹介され「此の種の端正な顔貌に好意よりむしろ容貌自身から來る引目(ひけめ)を、逆に何か苦手な氣の合はない人間のやうな氣がした」と言っていましたが、田端の自宅に帰る道すがら、話してみるとなかなかいい奴だとなり、交友を開始しました。
犀星は12歳で高等小学校を中退し裁判所の給仕をしていた頃、先輩から文学の面白さを教わり親しむようになりました。詩人を志したが名を上げられず、上京、帰郷を繰り返す放浪時代を過ごしました。大正5年、同郷の幼馴染で彫刻家として後に大成する吉田三郎を頼りに、田端に居を定めました。犀星は田端の自宅で発行した雑誌「感情」が詩壇で認められ、地盤を固めていき、さらには小説も書き始め文壇に登場しました。
芥川と犀星の二人の名声に伴って田端に文士が移り住みました。当時無名であった、堀辰雄や中野重治、佐多稲子といった人たちが犀星のところに集まりました。室生の親友で前橋に住んでいた荻原朔太郎も田端に居を構えます。犀星は、たくさんの文士が暮らした大正時代後期の田端を「詩のみやこ」といい、その中でも「王様」は芥川だと言いました。
そして文士村となった田端から雑誌が生まれます。犀星の家に集まった堀辰雄らの若手たちが発行した詩の雑誌『驢馬』です。準同人には犀星、芥川、朔太郎がいました。表紙の字は、芥川の主治医で書家の下島勲が手掛けました。まさしく、田端文士村の友情の結晶というべき雑誌が生まれ最盛期を迎えたのです。
芥川が多くの人と交わったようにして羽ばたいてほしい
最後になりますが、芥川は年齢も職業も違う人と交流して仲間を作りました。皆さんもぜひ多くの人と積極的に交流し仲間を作って欲しいと思います。多様な価値観の人と交わると、物ごとを俯瞰してみることができ困難を乗り越えることができると思います。
もう一つ、故郷を大事にする人になってほしいです。先ほど言った仲間を作っていくことは一方で、自身が何者なのかもだんだんとわかっていきます(他を知り己を知る)。その上で自身の生まれ育った土地・山形はとても重要です。特に方言やイントネーションは大事です。犀星は芥川が亡くなった後、田端を離れました。しかし、40年ぶりに田端に住む幼馴染・吉田三郎と再会した時、金沢弁でしゃべり、あっという間に旧懐をあたためたといいます。鯱張らずに、ありのままの姿に戻る時間を作りましょう。
皆さんにとっての故郷は山形です。しかし数年前に皆さんは上京しました。多感な時期の数年間、人生にとって最も重要な時代をこの寮で過ごしました。その貴重な時間を過ごしたここ北区は、皆さんにとって人生の基盤を作った第二の故郷といえると思います。山形と同じ位、第二の故郷・北区を大切にしていただければと思います。
田端の文士・芸術家のほとんどは若き頃に転入し、研鑚を重ね大きく巣立っていきました。おそらく皆様も、入寮してからいろいろな人と出会い、学校生活で知識を養ってきたことだと思います。かつての文士芸術家と同じように、この地で得た経験を活かし、社会に大きく羽ばたいていくことを期待しています。そして大きく成長した姿を寮生、育英会の皆様にいつでも見せに来てください!